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クワトロ会の沿革

クワトロ会の歴史

 クワトロ川の源流を遡ると、クワトロ会発足のキッカケとなる知られざる経線が見えてくる。
 昭和39年、鎌倉には当時、鎌倉美術家協会があって、たまたま其処に出品していた3人の歯科医師、井上一・久和総一郎・吉田茂が同業者の誼で親しくなり、その後加わった歯科医師大崎勇ニと共に、昭和42年7月に小町画廊(現在なし)で初の4人展を開いた。

 クワトロという名は4人展の時に吉田茂の師匠、川口画伯が4人の4と歯科の4(し)をとって、フランス語の4(Cuatro)と名づけた(現在、Quatoroとポルトガル語を使っているのは、後に長くクワトロ会員の指導に携わった牧画伯が南米帰りのため、画伯に展覧会の表題をお願いした時に得意のポルトガル語で書かれたのがキッカケと思われる。)
 4人展のあと4人が相談の結果、広く神奈川県下の歯科医師に呼びかけて全県的な会にしようと言うことになり、当時県歯副会長の下野純次にも連絡がいき、横浜からも千野のほかに4人ほど集まり、数回の会合の後、昭和42年12月4日、鎌倉小町の「イワタ」という喫茶店で発会式が行われた。当日の出席者は千野、吉田、井上、大崎、久和、浜野、北川、堀田、関、山田の10名であった。

 第1回クワトロ展は、昭和43年6月6日に横浜野沢屋(現在の松坂屋)4階で行われた。第2回展から9回展までは、横浜駅ビル6階の展示場で殆ど11月の晩秋に行われ、10回展から現在の32回展に至るまで横浜市民ギャラリーで行われて、開催月は殆ど6月・7月の夏であった。毎年、看板には神奈川新聞社、神奈川県歯科医師会、横浜市歯科医師会、全日本歯科医師美術連盟(DAAJ)後援という文字が添えられた。
 初代会長は、千野純次で13年間勤め(亡くなるまで)、その間横浜市医師会の杏林画会との合同展開催やクワトロ10周年記念誌上梓した。2代会長の大崎勇ニは就任後数年で会長職を辞任し、関幸一(DAAJの顧問の一人)に依頼した。
 3代会長、関幸一は以後平成8年まで12年間ほど勤め、その間20周年記念クワトロ会画集を上梓した。平成8年春より第4代会長に北川礼太郎が就任し現在に至っている。
 全日本歯科医師美術連盟(DAAJ)が昭和57年に出来たとき、クワトロ会とダック会(千葉)と東美会(東京)がその中核をなした。DAAJも発足当初は200数名の会員がいたが、現在は100数名である。北川礼太郎もDAJJの会長を歴任しており、クワトロ会からDAJJの常任委員が現在4人いる。
 4人の歯科医師から始まったクワトロ会であるが、その4人の内3人は既に故人となり、一人、久和総一郎が健在である。
 クワトロ会も歴史を重ね会員の年齢層が高くなり、これまでに多くの物故者があったが、中でもクワトロ会のために尽力された駒井嘉門、山田哲司は長寿を全とうせず他界され、忘れることはできない。
 クワトロ会の会員数が、発足して間もなくから現在までずっと30人前後の数を保ってきたという不思議な現象も、輪廻転生のごとく一人物故者がでると一人入会者があるという形で保たれたのかとも思われる。クワトロ会の年中行事と言えば、現在は、新年会から始まり、春のスケッチ会、夏にクワトロ展、その後にデッサン会(裸婦など)、そして秋に一泊スケッチ旅行という形になっているが、以前はもっと頻繁にスケッチ会やデッサン会が行われた。
 他の会と同様、クワトロ会員も旺玄会、白日会、女流画家、新世紀、創元会などの美術団体に所属している人もあり、中には野老由作太郎(元会員)のように旺玄会のトップになったり、長谷川泰(元会員)のように新しい会を作り人もあるが、本来は本職の傍らストレス解消も含め、美の追求を求めて集まった仲間である。最近は年齢のためか休会希望者や退会者も何人か出て、会員数は26名。
 今後もクワトロ会が末永く存続し、輝かしい歴史を残していってもらいたいと思っている。